History

悪魔の箱の物語
Fiddlin' Bill Henseley
Raleigh Fiddlers Convention 1905
Standing (L-R): S.S. Ransdell Jr., Accompaniest for S.S. Ransdell, Nat Warren, Judge (possibly B.F. Dixon), William "Buck" Andrews, C. E. McCullers, J.W. Sauls;
Seated (L-R): H.E. Ford, A.A. Parrish, R.C. Page, R.A. Chappelle

20世紀のアメリカを代表する女性画家、ジョージア・オキーフ(1887–1986)はウィスコンシン州の農家に生まれた。父親はアイルランド人で、ベニータ・アイスラー著『オキーフ/スティーグリッツ』(朝日新聞社)に次のような記述がある。「子どもたちにとって、父のフランク・オキーフは、勤勉さや新製品好きというよりも、ヴァイオリンでアイルランド民謡を奏でる姿や、ポケットにいつもお菓子が入ってることのほうが印象に残っていた」云々。ヴァイオリンとあるが、フィドルのことで、この楽器が持つ気分とアイルランド人の気質を象徴表現するような下りである。音楽、とりわけダンス好きのアイルランドの農民にとって、伴奏楽器フィドルは欠かせない娯楽道具であったからだ。娯楽とは享楽であり、アイルランド人へのある種の揶揄が通奏低音として流れてるような気もする。

Asheville 1938
Unknown Fiddler and Aunt Samantha Bumgarner
Asheville Mountain Music Festival August 1938

先住民がいたにも関わらずメイフラワー号が「新世界」に到着したのは1620年、そして植民地支配が始まった。英国とアイルランドの人々が入植したのはヴァージニア、ウェストヴァージニア、ノースカロライナ、ケンタッキーおよびテネシーのブルーリッジおよびアパラチア山系だった。いわゆる第一期植民地の時代であった。その後も移民は続き、フロンティアは西に進み、東南部山岳地帯は「陸の孤島」化してしまう。映画『Songcatcher(歌追い人)』は英国古謡「バーバラ・アレン」をアパラチアで蒐集した、マサチューセッツ州ウェストメドフォード生まれのオリーブ・デイム・キャンベル(1882-1954)をモデルとした恋愛物語で、アメリカンルーツ音楽への関心を喚起した作品だった。史実では、オリーブと英国の民謡蒐集家セシル・シャープ(1859–1924)は蒐集した伝承歌謡を『南部アパラチアの英国民謡』という著書として結実させ、オックスフォード大学から出版した。つまり本国で失った古謡がアパラチアに棲息し続けたのである。

Olive Dame Campbell
Olive Dame Campbell

フィドルもその例外ではなかった。納屋の棟上げ、石摘み取り、りんごの皮剥き、グリーンビーン栽培の糸引きなど、隣人が助け合う共同農作業に欠かせないのは、お酒とダンスだった。そしてそのダンスにはフィドル弾きが不可欠であったのはいうまでもない。ちなみにアイルランドでは当初イリアン(アイリッシュ)パイプがダンスの伴奏楽器だったが、フィドルに替わっていたという歴史がある。息切れせずに長い間演奏できたからだ。またパイプは複雑な楽器で演奏も難しいので、移民たちが東南部山岳地帯に持ち込まなかったと想像される。ところでコミュニティーにとって大事だった飲酒とダンスは、放蕩的であると聖職者によって非難されたようだ。だからフィドルは「悪魔の箱」と呼ばれたのである。無論、フィドルだけが楽器ではなく、ジャウハープ(口琴)やダルシマーもポピュラーだった。

Fiddlin' Bill Hensley
Fiddlin' Bill Hensley, mountain fiddler, Asheville, North Carolina ca.1937

エイブラハム・リンカーンが、南北戦争終戦のおよそ2年半前である1862年に奴隷解放宣言をしたが、アフリカ系アメリカ人たちがバンジョーおよび新しい演奏スタイルのギターを抱えて、アパラチア山系移動し始めた。そしてこれらの楽器は徐々にオールドタイムストリングバンドに組み入られるようになったのである。また19世紀から20世紀の変わり目に、オートハープとフラットマンドリンが通信販売によって普及することになる。そしてフィドル弾きは自らのコミュニティーを超えた存在になってゆく。フィドラーズ・コンベンションは1730年代にさかのぼる歴史を持っているのだが、賞金つきのそれがポピュラーになる。また旅回りの薬売りの余興「メディスン・ショー」が盛んになり、演奏家の職業化の種を蒔いたのである。ラジオとレコードの普及によって、さらに職業化の雪崩現象が起きたのだが、RCAのディレクター、ラルフ・ピア(1892–1960)が1927年にテネシー州ブリストルで行ったヒストリカル・レコーディングがその魁となったのである。

Bluegrass Boys
Bill Monroe and his Bluegrass Boys 1939
L to R: Art Wooten, Bill, Cleo Davis and Amos Garin.

以上は今日もルーツ音楽に最も影響を与えている、東南部山岳地帯で培われた伝承音楽およびその商業化であるが、無論、他の地域にも「開拓者」がフィドルを持ち込んだのはいうまでもない。例えばカントリー音楽のフィドル奏法は、テキサスのフィドルチャンピオンであったエック・ロバートソン(1887-1975)がその元祖だったと言えるだろう。またルイジアナ州に入植したフランス人たちは独特のケイジャン・フィドル奏法をもたらしたし、ブルターニュ地方に主として暮らすケルト系のブルターニュのフィドル奏法をカナダのノバスコシア州に伝播させた。南アリゾナの パパゴ族はスペインのカトリック宣教師からヴァイオリンを習い、19世紀中ごろポルカ、マズルカ、ショティッシュおよびカドリールなどの新しいダンスリズムを取り入れ、独特のフィドル音楽を作り上げた。またこれらとは別に、1927年のブリストルのセッションから生まれたカントリー音楽は、テネシー州ナッシュビルの「グランド・オール・オプリ」の舞台に結実、「メディスン・ショー」のフィドル弾きであったるロイ・エイカフ(1903–1992)などが人気をはくした。また複雑なシャッフル奏法などが生まれたのも見逃せない。またケンタッキー出身のビル・モンロー(1911–1996)がアフリカ系アメリカ人のジャズやブルーズなどの要素を取り入れ、ブルーグラス音楽作り上げる。時に超アップテンポで、エネルギッシュなブル-グラス・フィドル奏法が生まれ、今では国際的なフィドル・スタイルとして定着している。

Group Hoedown
Fiddle Musuc